この運動は、20世紀への世紀転換期ヨーロッパ美術界におけるアカデミズムからの分離運動に刺激されて、建築における芸術性の解放を目指した若者たちによる瑞々しい運動として、近代建築の歴史に刻まれています。本研究会では、分離派建築会発足100年を見据えて、現代建築に通じる重大な岐路のひとつであったこの運動の実態と意味とを問い直すことを目的としています。
幅広い分野の研究者が集まり、分離派建築会を研究、学術的に再評価し、2012年から研究会、連続シンポジウム、展覧会、出版などを通じて、その成果を発信しています。
分離派100年研究会からのお知らせ
分離派100年研究会が学術協力した展覧会「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」が、パナソニック汐留美術館、京都国立近代美術館の2会場巡回にて開催されます。
大正時代、日本の建築界に鮮烈なインパクトをもって現れた新星たちがいました。日本で最初の建築運動とされる分離派建築会です。大正9(1920)年、東京帝国大学建築学科の卒業をひかえた同期、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守によって結成され、その後、大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わり、昭和3(1928)年まで作品展と出版活動を展開しました。結成から100年目の2020年。本展は、図面、模型、写真、映像、さらには関連する美術作品によって、変革の時代を鮮やかに駆け抜けた彼らの軌跡を振り返ります。分離派建築会が希求した建築の芸術とは何か。日本近代建築の歩みのなかで果たした彼らの役割を、新たな光のもとに明らかにしていきます。
<会 場>
パナソニック汐留美術館 (アクセス)
<会 場>
京都国立近代美術館
春秋(京都/東京)の年2回、2020年まで計8回の開催を予定しています。
<日 時> 2016年10月30日(日)13:00~17:30
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 東京大学工学部1号館15号講義室(東京都文京区本郷7-3-1)
<定 員> 100名(先着順)※ 参加費無料/申込不要
◆ 開催趣旨 ◆
今回は、ヨーロッパにおける分離派(Secession / Sezession)と日本の分離派建築会のあいだにある西洋と日本との距離、美術と建築との距離を問い、分離派建築会をめぐるコンテクストを探ることにする。それによって、近代建築運動が孕んでいた問題と可能性を再考する機会としたい。
■ 併 催 ■
※ 当日、会場エントランスにて「東大所蔵分離派メンバー卒業設計図面」の特別展示を行います。
<日 時> 2017年7月8日(土)13:00~17:30
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 京都大学吉田キャンパス 百周年時計台記念館 2階 国際交流ホールⅢ
※ 参加費無料/申込不要
建築設計において、設計者自身の「自己」を、建築表現に不可欠な主体者として認めるかどうかを巡って、その必要性を主張する「建築芸術派」が、1910年代の日本の芸術界全般の動きの中で台頭してくる。これに対して、東大建築科のいわゆる「構造派」の教師陣が中心となり、野田俊彦の「建築非芸術論」を前面に押し立てて、猛烈にこれに反発し、教育上のその締めつけが、やがて20年の「分離派建築会」の設立の直接の契機となったとされている。一方、両派の鋭い対立の狭間で、すぐれたデザイナーであり、また先進的な構造技術者でもあった後藤慶二は、「自己の拡充」こそが、最も主要な関心事だと、10年代半ばに書いている。ここではその真意を探り、その後の「分離派」の登場と、彼らの設計者としての軌跡についてあらためて考えてみたい。
建築設計において、設計者自身の「自己」を、建築表現に不可欠な主体者として認めるかどうかを巡って、その必要性を主張する「建築芸術派」が、1910年代の日本の芸術界全般の動きの中で台頭してくる。これに対して、東大建築科のいわゆる「構造派」の教師陣が中心となり、野田俊彦の「建築非芸術論」を前面に押し立てて、猛烈にこれに反発し、教育上のその締めつけが、やがて20年の「分離派建築会」の設立の直接の契機となったとされている。一方、両派の鋭い対立の狭間で、すぐれたデザイナーであり、また先進的な構造技術者でもあった後藤慶二は、「自己の拡充」こそが、最も主要な関心事だと、10年代半ばに書いている。ここではその真意を探り、その後の「分離派」の登場と、彼らの設計者としての軌跡についてあらためて考えてみたい。
本発表の課題は、分離派建築会による「芸術としての建築」という主張が提起されてくる背景を、明治末から大正期にかけての思潮の中に探ることにある。そこで注目したいのは、分離派の若き建築家たちよりも数年年長で、当時文壇・論壇で活躍し始めていた和辻哲郎の動向である。西洋近代の「芸術」観の受容や教養主義といった時代背景の下で、和辻が「自己表現」としての創作や「民族」の根源的な想像力・創造力についてどんな思想を語り出していたかを見ることで、特に堀口捨己との注目すべき同時代性を確認できるはずである。
武田五一は、日本においていち早くヨーロッパのセセッション(分離派)を紹介し、そのデザインを普及させた建築家として知られる。しかしその活動は単なる紹介に留まらなかった。武田は、新しい建築は日本の伝統や独自の風土性を基に創られるべきだと考え、本質的な意味での「日本のセセッション」の実践を試みた。そのデザインや方法はいわゆる折衷主義的なものであったが、そこには「建築進化論」を唱え「妖怪」を好んだ建築家伊東忠太の影響が感じられる。武田と伊東を繋ぐことで、日本のセセッションのもう一つのルーツを探ってみたい。
<日 時> 2017年11月5日(日)13:30~17:00
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 東京大学本郷キャンパス工学部1号館15号講義室
※ 参加費無料/申込不要
◆開催趣旨◆
分離派建築会はなぜ結成され、なぜメディアに掲載されて「分離派式」と呼ばれるほどに有名になったのか。これまで指摘されてきた自己の創作の称揚、また帝大内の主流「構造派」への対抗ばかりでなく、商業との繋がりを考えられないか。──この見地から、分離派と博覧会、とくに1922年平和記念東京博覧会における分離派メンバーが設計したパヴィリオンとこれまでの博覧会パヴィリオンの比較を行い、また同博覧会に出展された「文化村」住宅、さらには博覧会場を飛び出して都市の享楽の場へ与えた影響を、建築史、美学芸術学、日本美術史などの立場から考察を交わし、分離派建築会が当時ブームとなった原動力を探りたい。
明治初期以降、わが国の建築家たちは西洋建築の導入と学習に邁進してきた。その目標は早くも明治末期に一段落するが、当時は既に彼らが目標としてきた西洋建築そのものが変化を見せ始めていた。新たな構造や材料に基づく新たな西洋建築は、1900(明治33)年のパリ万博以降、欧米に赴いた日本人建築家達や海外の美術雑誌等によってわが国にもたらされ、博覧会やマスメディアを通じて建築界に大きな刺激を与えた。きっかけとなったのは、「分離派」と呼ばれたゼツェッシオンである。その導入と意義を振り返る。
1922年平和記念東京博覧会のパヴィリオンを分離派建築会のメンバーが設計できたことは、もちろん実作の機会として貴重ではあった。しかし博覧会の他のパヴィリオンと共に建ったことで合成されたイメージ、あるいはメディアでの取りあげられ方などから、彼らの初志を周囲が十分に理解できたとはいいにくいことが分かる。本博覧会で彼らが実際に行ったこと、博覧会会場ゆえの様々な制約とともに、1914年東京大正博覧会との比較と、建築家の職能の展開と合わせて解説し、当時の日本社会が彼らに課そうとした課題に辿り着く。
大正期に新しい住宅の総称として「文化住宅」という呼称が流行した。この「文化」は、様々なモノの名称と一体となっていわゆる「文化」ブームを引き起こした。「文化住宅」もその一つ。 その語源、あるいは、その名称の使用の源を探ると、その一つに1922(大正11)年に開催された東京平和記念念博覧会の会場に設けられた住宅実物展「文化村」に辿り着く。 今回は、この文化村の住宅について、その概要、当時の住宅評等をもとに簡単に振り返り、その果たした意味を考えてみたい。
大阪には分離派の影響を受けた建築や橋梁が残される一方、大正初期に道頓堀中座前に開店した「キャバレー・ヅ・パノン(旗の酒場)」は、「白亜のゼセッション風の酒場」と呼ばれて明確に分離派をとりいれたカフェであり、同じ道頓堀の「松竹座ニュース」にもプラトン社によって分離派風のデザインが用いられるなど、幅広い都市生活に分離派の影響が浸透していたことがわかる。建築にもふれながら、美術史と都市文化史の視点から、大阪の街における分離派と“大大阪”の時代に至るモダニズムの展開を報告する。
<日 時> 2018年6月16日(土)13:30~17:30
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 京都大学楽友会館2階会議・講演室(京都市左京区吉田二本松町)
<定 員> 100名(参加費無料/先着順)
◆開催趣旨◆
分離派建築会が発足された当時、社会にはデモクラシーの潮流が現れたり、ロシア革命に後押しされて社会主義思想が隆盛をみたりするなど、「大衆」や「民衆」に即した種々の主義や主張が生まれた。社会や精神の「改造」が叫ばれ、人々の眼差しは新しい都会・都市と伝統的な田舎・地方の両者に向けられた。本シンポジウムでは、分離派建築会のメンバーが新しい創作を標榜しつつも、堀口捨己の「紫烟荘」、瀧澤眞弓の「日本農民美術研究所」、蔵田周忠の一連の田園住宅など、民家(農家)に着想を得たと考えられる作品を残していることに注目する。「田園的なもの」「地方的なもの」がかれらの建築制作のモティーフに数えられたのは、刻々と変化する日常生活に対するひとつの応答であり、そこには表層的な模倣を超えた意味があったと考えられる。近代建築の多様化と均質化の中でかれらが摂取した地方性の問題について、分離派建築会の活動と同時期に創始された民藝(=民衆的工藝)運動も視野に入れながら検討したい。
分離派建築会の第5回展(1926年1月)には、堀口捨己の「茅葺住家」、蔵田周忠の「住宅の一群」、矢田茂の「窯業家の住宅」など「田園」の要素をもつと思われる作品が多く出展された。同年6月に蔵田は『近代英国田園住宅抄』を刊行した。分離派建築会会員による「田園」に関わる言説や作品を辿ると、都市およびその郊外に建てられる文化住宅との関わりの中で「田園」が主題化され、そこには非都市的思考、反都市的思考、都市的思考という3つのパラダイムが存在していたことが見えてくる。いずれも建築家の個性を抑制的に扱いながら材料や民衆のもつ自然さや素朴さを創作に取り込むという共通の姿勢を有している。
瀧澤眞弓が山本鼎の日本農民美術研究所の本拠建物を1922(大正11)年に設計していたことはこれまで殆ど知られてこなかった。一見古民家風のたたずまいはそれまでの瀧澤の計画案にはみられなかったものであり、また実際に建てられた建物は瀧澤にとっての事実上の処女作(仮設展示館を除き)であったにも拘らず、発表された形跡さえ見られない。農民美術研究所の建物にはこうした謎めいた点があるが、単なる興味本位としてではなく大正期の瀧澤の思考を知る鍵になり得るのではないかと考え注目している。今回はまず現在の長野県上田市にあたる農村「神川(かんがわ)村」において、山本鼎が1919(大正8)年に興した農民美術運動の概要を紹介する。そして遺された瀧澤の設計図面や資料の報告を交えつつ、分離派建築家としての瀧澤と農民美術との出会いがもたらしたものを考えてみたい。
民藝運動は、その草創期より、時代のオルタナティブを追究するものでした。運動のリーダー柳宗悦は、その主著『工藝の道』(1928)の中で、民藝という視点に立脚した新たな美の提示を「価値転倒」の試みとしています。彼らが注目したのは、世間的にも歴史的にも評価されないままだった雑器でした。いうならば、既知の言説に馴染んだ耳には意味をなさない、雑音でしかない、ノイズ的なものたち。あえて「民藝」という新しいコトバを造語した点にも、そうしたものへの関心はうかがえます。設立時期をほぼおなじくする分離派建築会にもまた同様の時代に対する姿勢があったのではないでしょうか。彼らが注目した「田園」とはまさにそうしたものだったのではないでしょうか。その現代的意義を考えます。
堀口捨己は生涯にわたって建築と庭を一体的に探求した建築家である。建築と庭を制作しただけでなく、茶室を研究し、茶をたしなみ、短歌を詠んだ。そうした営みのなかで、まなざしはつねに自然の生命へ向けられていた。学生時代から短歌の制作を始め、北原白秋に近づき、写生をとおした生命の観照を学ぶ。そしてオランダでアムステルダム派の藁葺き屋根レンガ造住宅に出会い、帰国後、それに強く影響された「紫烟荘」を完成させた。茅葺き屋根に漆喰やレンガを使ったこの住宅で、堀口は田園の「地上的な原始的な静けさ、朗さ、円やかさ」を試みたのだった。
<日 時> 2018年11月3日(土)13:30~17:30
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 東京大学・工学部1号館15号講義室
<定 員> 100名(予約不要、先着順)
◆開催趣旨◆
分離派建築会(1920年 東京帝国大学卒業・結成)を、日本の近代建築におけるモダンデザインの鼻祖として位置づけ、彼らの活動全体を明らかにすることが、本連続シンポジウムの目的である。今回は、彼らの活動の基盤を作り上げた東京帝国大学の建築教育や、当時の建築技術および社会的な側面から、分離派建築会誕生の背景に迫る。
従来の研究では、彼らが学生時代を過ごしたこの時期、東京帝国大学の建築学科で意匠系科目と構造系科目の選択制が敷かれていたことに着目し、分離派建築会のメンバーを意匠派の側に位置付け、構造派との対立関係のなかで、彼らの活動のモチベーションや先進性が論じられてきた。
だが、この時代をこれほど単純な二項対立によって捉え、分離派をただ「意匠派」という括りで理解して良いのだろうか?今回のシンポジウムでは、東京帝国大学における建築教育の詳細を明らかにすると同時に、当時の教授陣が取り組んでいた建築にまつわる問題を見ていくことで、分離派誕生の背景を再考してみたい。
■ 併 催 ■
※ 当日、会場ホワイエにて「内田ゴシックの詳細図(工学部2号館/安田講堂)」(常松祐介)を展示します。
<日 時> 2019年5月25日(土)13:30~
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 旧京都中央電話局西陣分局(現西陣産業創造会館/京都府京都市上京区甲斐守町97)
<定 員> 70名(参加費無料、予約不要、先着順)
◆開催趣旨◆
建築と芸術ー分離派建築会は、様式建築から建築を解き放ち、自由な創作すなわち芸術としての建築を希求し日本のモダン・ムーヴメントにおける先駆者とされた。しかしもしも芸術性の追究が過渡期的存在との眼差しを得たとするならば、ここで再検討しておく必要もあろう。例えば自由な造形性ー曲線や曲面、自然の造形ーそれはコンクリートなど新素材・新技術と共にあったはずだからである。
建築と絵画との関係はル・コルビュジエがよく知られるが、ここでは彫刻との関係に注目したい。白樺派は先立つ1910年代にロダンを紹介し、彫刻にも建築にも影響を与えた。若き分離派建築会メンバーも建築作品において建築の結び付きを意識化したが、その先鞭を付けたのは岩元禄の作品であった。また蔵田周忠は彫刻の新潮流を『ロダン以後』に著した。彼らの創作や造形に対する意欲が、分離派結成の原点と呼べるかもしれない。その姿勢を仮に「彫刻的なるもの」と呼び、近代彫刻の専門家との討議からテーマを深めていきたい。
■ 関連展示 ■
山田守の担当した逓信建築の設計図面と写真
江戸時代からの大工彫刻、 明治前期のエ部省による美術学校開設など、 近代日本彫刻史は建築との関わり抜きに語ることはできない。 そのなかで大正~昭和前期とは、 彫刻と建築が造形性や思想の面でとくに接近した時代としてとらえられる。その様相について、 明治後期から彫刻界で指導的役割を担い、個人的に伊東忠太や塚本靖、 関野貞らと交流のあった新海竹太郎、 昭和初年に彫刻家団体「構造社」を結成した齋藤素巌と日名子実三を中心に考察する。
明治期の装飾建築の受容期を終え、分離派建築会メンバーは新たな創作方法の模索に力を入れていた。メンバーの一人であるある山田守は「装飾」に代わる創作法に、 曲線や曲面を備えた 「マッス」による表現を試み、 それを生涯に渡り進化させてきた。 最晩年の京都タワ ー ビルはその到達点といえるだろう。 一方で山田は時代に求められた「合理主義者」でもあった。その調停の手法についても明らかにしたい。
1922年から約1年間、 石本は西欧各地を巡り建築の新潮流への確信を得て帰国した。 渡欧の足跡を『建築譜』又は同行者仲田定之助の『ベルリン日記』などを頼りに辿れば、 それは表面的な受容などではなく、 第一次大戦終戦後ドイツの渦中に身を置き、 近代の光と影を体感しつつその本質を掴み取ろうとした石本の姿が浮かび上がる。 その核心部分は同氏がドイツで購入し愛蔵し続けたヘルツォークやレームブルックの彫刻作品が湛える感情とも通底しているのではなかろうか。
分離派研究会が建築の「芸術」性を掲げて活動を開始したとして、それはどのような「芸術」だったか。 野田俊彦による攻撃対象としての「芸術」は装飾から自己表現にまで及ぶため揺らぎを認められるが、 分離派の旗印としての「芸術」にも6人各々の見解と展開があり、また主に建築構造、日常生活、階級闘争の3点から、 歴史上その旗が色褪せていく。しかし理論上、 実はその3点にこそ、 建築独自の芸術、 表現、 創作があり得たという可能性にまで言及したい。
<日 時> 2019年10月26日(土)13:30~17:30
<主 催> 分離派100年研究会
<会 場> 東京都市大学 世田谷キャンパス2号館21C → 1号館2階12M教室 → 6号館1階61B ←会場が変更になりました。
(東京都世田谷区玉堤1丁目28-1)
<定 員> 100名(参加費無料、先着順)
◆開催趣旨◆
20世紀に入り共産党宣言に触発され、幾多の‘宣言’がなされた。大正7年(1918)には、東京帝国大学法科の学生を中心として結成された新人会が‘宣言’し、その2年後に分離派建築会も‘宣言’を上梓した。相次いで結成された二つの会であるが、分離派建築会は、社会的、政治的態度を表明しなかった。それは弱点でもあったが、それゆえに7回も展覧会を開くことができたのかもしれない。しかしながら、その展覧会がまさに実社会へ開かれた扉となったのである。特に関東大震災後の彼らの活動は、実践的となっていく。彼らは、公共建築、住宅などの実作、建築教育、執筆活動などを通して社会へのコミットメントを果たしていく。「新しい」という言葉がまさに新しく新鮮に響いていたこの時期、欧米の新たな動向、DWB(ドイツ工作連盟)、バウハウスなどに影響された思想、合理主義によって幾何学的な建築表現も生み出されていく。
本シンポジウムでは、分離派建築展第2回展から参加した濱岡(蔵田)周忠、第4回展からの岡村蚊象(山口文象)、第6回展からの川喜田煉七郎を中心として、新しい都市生活における諸問題をいかに解決しようとしたのか、その試みについて考えてみたい。
■ 併催 ■
蔵田周忠文庫見学会 ←台風の影響により開催中止となりました。
場所 東京都市大学 世田谷キャンパス 図書館 蔵田周忠文庫
時間 10:30-11:30 定員 30名
【参加申込書】より事前にお申し込みください。
申し込み多数の場合、抽選となりますので、あらかじめご了承ください。
創宇社建築会関連資料パネル
場所 東京都市大学 世田谷キャンパス 2号館ホワイエ
構成 佐藤美弥
創宇社建築会に参加した建築家竹村新太郎が残した資料群について写真で構成するパネルで紹介します。
「当時、分離派を生んだウイーンが日本の関係者に羨望のまなざしで学ばれ語られる中で、蔵田周忠は1919年に設立されたバウハウスの理念を語る高等工芸ただ一人の教官だった」と語ったのは、豊口克平である。豊口は、蔵田周忠(1895-1966)が講師を勤める東京高等工芸学校の教え子で1928年(昭和3)に結成された‘型而工房’の一員でもある。蔵田とその教え子たちは、新しい時代に即した住空間と生活の問題を解決するためにこの工房を立ち上げた。その4年後には、住宅生産の合理化をはかることを第一の目標として‘日本トロッケンバウ研究会’が結成された。本シンポジウムでは、分離派建築会のメンバーであった蔵田周忠が‘建築的なもの’への憧れから実際の‘建築’、特に人々の住まいへと関心を寄せていった軌跡を辿り、‘型而工房’と‘トロッケン・バウ(乾式工法)’という実験的活動が今日の私たちの生活へと続く道を切り開いたであろうことを検証してみたい。
明治期の装飾建築の受容期を終え、分離派建築会メンバーは新たな創作方法の模索に力を入れていた。メンバーの一人であるある山田守は「装飾」に代わる創作法に、 曲線や曲面を備えた 「マッス」による表現を試み、 それを生涯に渡り進化させてきた。 最晩年の京都タワ ー ビルはその到達点といえるだろう。 一方で山田は時代に求められた「合理主義者」でもあった。その調停の手法についても明らかにしたい。
分離派建築会に第4回展覧会(1924年11月)から参加した山口文象(1902-1978)は、徒弟学校卒業のノンエリートであった点で分離派のなかでも独特の位置を占める。山口は1923年9月1日に発生した関東大震災の直後に、逓信省の営繕部門で製図工や現場監督として働く仲間たちとともに創宇社建築会を結成し、1930年までに8回の展覧会を開催した。ここでは山口と創宇社の建築認識の展開とそこでの都市生活への視角について考察する。 これまで、また現在においても、創宇社の活動は分離派の模倣として始まり、彼らの社会的な、また建築界における立場を背景に社会改革を目指す方向へ転回していくとされてきた。そしてその活動は建築界へのインパクトという尺度で計られ、デザインの変革に寄与しなかったあだ花的存在として評価されてきた。果たして創宇社とは分離派の模倣でしかなかったのだろうか。あらためて山口と創宇社の作品と言説から考えたい。
分離派研究会が建築の「芸術」性を掲げて活動を開始したとして、それはどのような「芸術」だったか。 野田俊彦による攻撃対象としての「芸術」は装飾から自己表現にまで及ぶため揺らぎを認められるが、 分離派の旗印としての「芸術」にも6人各々の見解と展開があり、また主に建築構造、日常生活、階級闘争の3点から、 歴史上その旗が色褪せていく。しかし理論上、 実はその3点にこそ、 建築独自の芸術、 表現、 創作があり得たという可能性にまで言及したい。
(敬称略・五十音順)
青山学院大学
京都国立近代美術館
福井工業大学
パナソニック汐留美術館
東京都市大学
金沢工業大学
東京大学
広島工業大学
iffa(建築と芸術研究会)
京都橘大学
岐阜大学
文化庁国立近現代建築資料館
京都大学/研究会代表
日本大学
東京大学
金沢21世紀美術館
東京大学、京都大学楽友会館、東京都市大学、旧京都中央電話局西陣分局舎をはじめ、分離派建築会のメンバーゆかりの地を会場に、連続シンポジウムなどを開催してきました。
東京帝国大学建築学科の同期生6名(石本喜久治、山田守、堀口捨己、瀧澤眞弓、矢田茂、森田慶一)が分離派建築会を結成。
石本喜久治渡欧送別会
堀口捨己渡欧送別会
1894年、神戸市に生まれる。1920年、東京帝国大学卒業。同級の堀口捨巳、山田守らと分離派建築会を結成。当時、大学卒が就職することが珍しかった竹中工務店に入る。1922年、単身渡欧、文献や美術品を持ち帰り、その経験や写真を『建築譜』にまとめる。竹中工務店時代に山口銀行東京支店、東京朝日新聞社などを手掛け、1927年、白木屋百貨店の設計を機に独立。1951年、設計事務所を法人化し、大型の設計組織体への移行を目指した。1963年没。
1896年、長野県に生まれる。1920年、東京帝国大学卒業、分離派建築会を結成する。同年、葛西萬司の建築事務所に入所。平和記念東京博の技術員としてパビリオンの設計に携わり、その後、堀越三郎建築事務所に在籍して数件の建築を担当したが、神戸に赴きそれ以降は教職と研究の道を歩んだ。1958年、「パルテノンに関する三つの問題」により工学博士の学位取得。神戸高等工業学校、大阪市立大学、甲南大学などで教鞭を執る。1983年没。
1895年、岐阜県に生まれる。1920年、東京帝国大学卒業後、大学院に進学。同年、分離派建築会を結成。1921年 平和記念東京博覧会の技術委員として、第二会場池塔、動力機械館などのパビリオンの設計に従事。1923年に渡欧、バウハウスやオランダのアムステルダム派の建築に触れ、帰国後は茶室研究を展開、近代性と日本の伝統建築との融合を視野に置いた作品を手掛けた。1944年、「書院造りと数寄屋造りの研究」により工学博士の学位取得。東京大学、東京藝術大学、明治大学、神奈川大学にて教鞭を執った。
1895年、三重県に生まれる。1920年、東京帝国大学卒業。同年、分離派建築会を結成。警察技手、内務大臣官房都市計画課を経て、武田五一に招かれ京都大学にて、建築材料学、設計製図の指導にあたる。古典建築の研究を通じて建築の本源を思索し、『ウィトル=ウィウス建築書』の日本語訳、『西洋建築史概説』『建築論』などの著作を執筆した。京都大学の農学部正門と楽友会館などの設計を手がける。1983年没。
1894年、岐阜県に生まれる。1920年、東京帝国大学を卒業、分離派建築会を結成する。同年逓信省に入省、1940年、営繕課長、1945年に退官するまで東京中央電信局、東京逓信病院など、数多くの局舎を設計。関東大震災の復興期には、復興橋梁の設計にも関与した。1946年、山田守建築事務所を開設。1951年からは東海大学理事となり、同大建設工学科主任教授を兼務する。主な作品には、東京厚生年金病院、日本武道館、京都タワービル、東海大学の一連の校舎などがある。1966年没。
1896年生。1920年東京帝国大学卒業。分離派建築会の結成に参画。1920(大正9)年、東京帝国大学建築学科を卒業。1922(大正11)年、清水組(現・清水建設)設計部に入社。1943(昭和18)年、海野浩太郎の後を継ぎ、第9代取締役技師長兼設計部長となる。1946(昭和21)年、同社を退社し、池田組取締役。1950(昭和25)年矢田建築事務所を設立。主な作品に、竹尾洋紙店(1928〈昭和3〉年、非現存)、高岡本丸会館本館などがある。
1902年、東京生まれ。父は大工棟梁、祖父は宮大工という家庭に育つ。1918年、職工徒弟学校卒業後、清水組定夫となる。1920年、逓信省経理局営繕課の製図工となり、上司の山田守を通じて分離派建築会の活動に参加する。1923年、大卒のエリート集団であった分離派に対し、若手図工らによる創宇社建築会を結成。1924年、復興局橋梁課、日本電力の嘱託技師となる。石本喜久治による朝日新聞社や日本橋白木屋等を担当。1930年に渡欧し、グロピウスのアトリエに在籍。帰国後、設計事務所(後のRIA建築綜合研究所)を設立する。主な作品に、日本歯科医学専門学校付属医院、黒部川第二発電所などがある。
1895年、山口県生まれ。1913年、工手学校を卒業後、三橋四郎の設計事務所に入所。1921年、平和記念東京博覧会の技術員となり、分離派建築会の面々と出会い、同会に参加するようになる。1922年、関根要太郎の事務所に入所、京王閣、聖蹟記念館などの設計を担当する。1930年、渡欧、帰国後、蔵田周忠建築事務所を設立する。1932年、武蔵高等工科学校教授となる。
1892年、東京生まれ。1921年、東京帝国大学卒業。分離派建築会の主要メンバーの1学年下に在籍、同会の活動に参加する。1923年より欧州に二年間在留、バウハウスを訪問し、パリから日本に紹介記事を寄稿する。帰国後、東京高等工業学校建築科長、戸田組勤務を経て、1929年、阿部美樹志事務所に入所。阪急ビルディング、東京宝塚劇場などの現場監督に従事する。1934年、大阪市電気局。大阪市立電気科学館の設計になどに関与した。『欧州近代建築の潮流』『近代の欧洲建築』『建築と社会』などの著作を残した。1937年没。
分離派建築会の結成時のメンバー
現在、分離派建築会に関する文献書誌情報等が検索できます。
展覧会開催のために行った調査成果なども、今後、一部をデータベース上に反映する予定です。
シンポジウム等の情報をご希望の方へメールでご案内いたします。お名前とメールアドレスをご登録ください。